2010年6月28日月曜日

宗教と道徳の寄り添う関係 その1

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宗教と道徳の寄り添う関係について書いてみます。
こういうテーマはこのブログのテーマとはあまり関係が内容にみえますが・・・。
それはそれ。
お時間がありましたら最後までご覧下さい。
もしかしたらブログのテーマと合ってるかもしれませんよ?
なお、今回の記事を書く気になった動機は6/26深夜のハーバード白熱教室を見たからです。
テーマは確か正義について。
作業しながらだったのでとびとびでしか聞いていませんでしたが、道徳の基礎にある宗教についての発言があり、それに触発されたからです。


最初に


まず始めに、これから書く内容は私の頭の中にある情報を元に書いています。
その情報の元は主に書籍であり、イロイロな書籍の情報が頭の中で混ざり合っています。
その為、間違いや勘違いも有るかと思いますので、情報の正確性は保証できません。

大事な前提として、私自身は無神論者です。
特にどの宗教が好きとか嫌いとかもありませんので、ご承知置き下さい。

道徳とは


道徳とは、なんて書いて説明できる自信は全然有りませんが・・・。
自分で理解している範囲では、社会の基礎となる規範であると理解しています。

法律も同様の物で、道徳との違いは成文化されて社会的で強力な拘束力が有るかどうかです。
成文法にならずとも効力のある商習慣は法的根拠になり得ますが、これは特定の状況による道徳ともいえるでしょう。

道徳の形成に必要な基礎は?


道徳が社会の規範であるなら、その成り立ちの基礎はどこに有るのでしょう?

ここで、大きく2つに世界を分ける事が出来ます。
すなわち、

・特定の宗教に所属している世界
・特定の宗教に所属していない世界

という分け方です。

具体例を挙げるならば、西欧諸国は宗教に所属しています。
日本や中国は所属していません。

なお、今回は宗教に所属している側に付いて書いています。

さて、このように2つに分けて事でもお分かりの通り道徳の基礎は宗教です。
宗教だけでは無いのですが、最も大きく深い基礎である事は間違いないでしょう。

宗教が影響を及ぼす範囲


信仰の度合いにもよりますが、基本的に生活のすべてに宗教は影響を与えています。
なぜなら、宗教には聖典や口伝が存在し、その聖典や口伝を読み取る事で成り立っているからです。

聖典に記載されている内容には、基本的にその宗教を開いた人の言葉や行動が綴られています。
つまり、宗教のもともとの核はその宗教を作った人に共感すること、だといえます。

内容を細かく見ると、まれに予言書と言う見方もされますが、大部分は日常的な話です。
もちろん前提となる状況は現実とは思えない、神の奇跡を書いているあ訳ですが・・・。
その前提から起る行動やその意図はとても日常的なのです。

たとえば、キリストは最後まで周囲の人間(使徒)を愛して、人を愛する事が大切だと示します。
マホメットはもっと具体的で、将来の不確かなことに投資をしては行けない(実際には、生まれる前の子羊にというはなしらしいですが)とさえ言っています。

つまり聖典を元に広まるので、宗教を受け入れるとその内容に記された生活を規範としてうけいる事になります。
この生活の規範に反する物が道徳的にみると不道徳となり、合致していれば道徳的となります。

多様性の問題


さて、道徳や規範と言う場合に最も大きな問題となるのは、その道徳や規範を実践する人間の多様さや不確かです。

どれほど宗教に入れ込み、信仰心を高め、研究に励んでも個人個人でその理解の度合いや内容は変わります。
極端にいえば、誰一人同一の信仰を持っている人はいないのです。
ここに大きな矛盾が生じます。
1つの宗教は1つの集団を形成するはずなのに、人間の集団は同一の集団を作る事が出来ないからです。

この問題が、宗教に宗派を生む原因になります。
自分たちにとってより良い規範になるように、聖典を「読み替える」のです。

宗派の開祖にはもちろん混乱を生む意図はありません。
むしろ、所属する宗教が万能の教えであるという思い込みで、すべての事態に対応できるように読み替えてしまうのです。

こうして世界には宗教の何倍もの宗派が存在する事になりました。

イスラム教の特殊性


さて、ここで最も異彩を放つのがイスラム教です。

その大きな理由は、聖典が生活の規範となることを前提に作られたような細かさ。
そして何より、アラビア語以外でコーラン(聖典)を唱えたり書いたりしてはいけないという決まりがあることです。

言語を厳しく統制すると言う事は、人間の多様性を効率的に制限できる事になります。
もちろん同じ言語の中にも相違はあるのですが、通常同じ言語圏の集団は親和性が高く、他言語同士よりも似た集団になります。
人類を分類する際に、言語で分ける方法があることがこの根拠になるでしょう。

全世界が1つの言語を話し、多様性が統制された集団となる。

いわゆる世界宗教としてこれほど適した宗教は無いでしょう。

と、ここだけ取り上げると力強い話なのですが、イスラム教の仕組み自身がこのメリットを否定しています。
それは、指導者によるコーランの解釈です。

コーランがいかに細かいとはいえ、すべての時代のすべての事柄の規範を示せる訳が有りません。
その上でコーランに根拠を求めるならば、解釈をして対応するしかない。
この解釈が大きな問題で、その権限が数多くのイスラム法学者(宗教学者)に委ねられているからです。

当然相反する解釈が生まれる可能性があり、宗派が生まれやすくなります。
しかもその宗派は、指導者という目の前にいま生きている人間の数だけできあがります。
多様性を統制できるはずの仕組みの中に、更なる多様性を生む要素を内包しているのです。

最終的には、指導者のランク(権威)の大きなものの判断が重視されますが、生まれる解釈のすべてを最高権威が判断しているとは思えず、やはり統制は難しいでしょう。



WEBと宗教


最後に、WEBと宗教について少し。

WEBの基本はボーダレス。
境界線の無い世界ではありますが、使う人間には当然境界が有ります。
その境界を形成する強い要素として、ここまで書いた宗教があります。
つまり、宗教を理解することで、WEB上でも有利に物事を展開することが出来る訳です。

デザイン上では色に始まりシンボルな等の暗喩などさまざまな意味付けが行えます。
ワインとパンをならべればキリスト教をイメージさせやすいですし、メッカの方向を示すアプリケーションが有ればイスラム教徒に訴えかけられるかもしれません。

特にビジネスに結びつきやすい(というか、現実にそれでもうけている人が既にいる)のが、イスラム教徒への展開です。

ハラル(戒律で決められている食べてよいものとダメな物を区別する印)やイスラム債(投資を禁じているイスラム教徒でも出来る形の金融商品)が有名です。

WEB上のサービスでこれらに特化すれば、ターゲットの範囲はその宗教の範囲と同一となり大きなマーケットを手に入れる事になります。

様々な問題もあるでしょうが、少なくとも宗教を毛嫌いしていると、いろいろなチャンスを逃がす事になるのではないでしょうか?

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