2012年10月24日水曜日

「みんなが使いやすい」という幻想

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今回の記事は、UI(User Interface:ユーザーインターフェース)からUX(User Experience:ユーザーエクスペリエンス)に至るまで、といいますか非常に広い範囲に及ぶ内容かと思います。

毎度ながらですが、私的意見であり世の中の真実という訳ではありませんので、お間違えのないように。もっとも、それほどおかしな考えとは思っていませんが。



「みんなが使いやすい」という理想


Webサイトを作るとなると、大勢の方に見ていただいて、使っていただいて、気に入っていただきたいと考えるものです。これは自然ですし間違ってはいません。

より具体的に言えば。

Webサイトには何らかの役割が背負わされるものですが、大抵は商売の役に立つため。ターゲットとなるユーザー層にどれだけ気に入ってもらえるかが肝になります。そして、このユーザー層は絞りに絞ったものかもしれませんが、可能であるなら世界中の人に気に入ってもらいたいと思うでしょう。

せっかく作りあげたのですから。

みんなに気に入られるためには、どの国の、どの年齢の、どの職業の、どの性別の、どんなユーザーであっても同じように使える必要があります。

「みんなが使いやすい」という現実


では、みんなが使いやすいという理想は実現できているでしょうか?答えは例をだすまでもなく、「NO」です。

十人十色というように、人それぞれに違いがあるため全員が同じように使えるわけがありません。それ故に、実際にはターゲットを絞ったり、大多数が使いやすいと思えるように作る訳です。

ですが、そうやって狭めた範囲の中でも当然違いがあるので、やはり全員が同じように使いやすいと感じてもらえると期待などできません。

こうなると「どうすればいい」となりますが、視点を変えれば答えは意外と簡単なものだと考えています。

「みんなが使いやすい」=「みんなが使いにくい」


みんなにとって使いやすくするにはどうするべきか?

その答えは「みんなにが使いにくい」ように作ることです。

どうせ全員には合せられないから、ということではなくて、結局の所「みんなが使いやすい」と「みんなが使いにくい」は同義だからです。

重要なのは、誰に対しても小さな不便を強いるだけで使えるようにすることです。

理想から考える弊害

仮に誰かにとって非常に使いやすく作ることができたとします。それはもう、不満の一つもでないほどの素晴らしい出来映えです!

一見すばらしい結果に見えますが、誰かにあわせるということはその誰か以外にはあっていないことと同義です。もうすこし視点を変えれば、あわせた誰かと違いが大きい人ほど使いにくさは増します。場合によっては使えない人もいるでしょう。

オーダーメイドのように特定の誰か1人のためにであれば問題はありません。より多くの人に、と考えるのであれば大きな問題になり得ます。

不便を便利に


誰にとっても使いにくくなるなら、どう作ればよいのか?

最良の答えを見つけられていませんが、手がかりは前述した「誰に対しても小さな不便を強いる」という視点だと思います。

どう転ぼうとも全ての人の使いにくさを消せないならば、不便を最小限に抑えることで便利にする訳です。どれほどの良さを発揮できるかではなくて、どれほどの不満を解消できるかという視点に切り替えるといったほうがよいかもしれません。

あまり楽しい物作りにはなりそうにありませんが、より多くの人にと思うならば無視はできない考え方のはずです。突っ走って実装した機能に不満続出となるならば、この視点が抜けている可能性大です。

仮にしっかりと使い難さを意図して作った上のことならば。慌てることはありません。なぜならその不満は意図した不満であるからです。この場合、不満は徐々低調になり、自然と多くの人に受け入れられるはずです。

ここで重要なのは、不便さが消えた訳ではないこと。多少の不便はあっても、誰しもが使えることで結果がでます。

結び


結論としては。

理想として思い描くような「みんなが使いやすい」という状態は、幻想にすぎません。現実は「みんなに使いにくい」状態です。

蛇足的な例え

あくまで私的な例えでありますが。

不便を作り出すとこによる平等性を考える際に、思い出した事柄があります。それは、以前読んだ本(確か宗教社会学という本のないようだったと思います)にかかれていたキリスト教についてです。

キリスト教では神の元の平等を唱えています。見方を変えると、神を人類の一段上に祭り上げることで、人類は皆一段下にひしめく同類になる訳です。

神は崇拝の対象ですから不便の象徴とはとてもいえませんが、戒律や道徳的な抑制など、ある種の束縛を与えるものではあります。これは、全くの自由人からすれば束縛、そして不便に他なりません。

つまり、明確な不便を強いることで本来はばらばらなはずの集団を一定の状態に形作ることができます。その状態になりさえすれば人は不便を不便と感じなくなります。そこにある当然のものとして受け入れてしまうからです。

人間がその身一つで飛べないことに怒り狂う人はいないでしょう?

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