2016年2月3日水曜日

「コンテンツ」という言葉で消されてしまうもの

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自分自身、コンテンツコンテンツと言っているので俎上にのせるのもおこがましいかもしれませんが。
文章や映像や音楽は、「コンテンツ」という形で提供された時点で消されてしまう要素があるのではと考えています。

あまりまとまりがありませんので、今回も殴り書き程度です。

本と映画と音楽と


  • 本を読む
  • 映画を見る
  • 音楽を聴く

アナログかデジタルか、あるいは現場で生で見るかWebを介してディスプレイで見るか。

視覚や聴覚や触覚などの五感を使ってそういったものに触れた経験は誰しもあるでしょう。
それぞれに種類や大きさなどの違いはあれど、「得るもの」があったと思います。

ところが、これがWebサイトなどで「コンテンツ」として展開された場合、とたんに「消費されるもの」という一つの方向を定められるように感じています。

「消費」させるための創作活動か?


例えば本を書いている人は、どういう考えで本を書くのでしょうか。
思い浮かぶのは以下のような事柄です。

  • 情報や知識を提供したい
  • 楽しさや悲しさなのどの感情を揺り動かしたい

仕事として創作活動を行っている場合、もちろん収益を上げるためという点は重要ではありますが、その手段としてでさえ、創作物によって何かを「与えたい」と考えているはずです。
収益自体にしても、与えたことによる対価としてもたらされます。

少なくとも、「創作物を消費させたい」とは捉えておらず、「今日はよく消費してもらった!」みたいなことはいわないのでないでしょうか?

「コンテンツ」という言葉で消されてしまうもの


本質的に本も映画も音楽も、誰かに鑑賞されたところで消えはしません。

1人が読めば本から1文字が消え、2人が映画を見れば2つのセリフが消え、3人が音楽を聴けば3つの音が消える、などはありえませんものね。

であるなら、消費されているものそれ自体は一体なんなのか。
少なくとも創作物側には消費されるものがなく、あるとすれば受け手側に存在する何かなのでしょう。

疑問は尽きないのですが、「コンテンツ」という言葉で定義された途端、当然のように「消費」という言葉がくっ付いてきます。

このような関係性というか認識のようなものになってしまうために、コンテンツとして用意した側と受け手側のどちらも認識が軽くなり、本当に消費されるだけの代物になっているように思えます。

非常に個人的な感覚ではありますが、結果として「コンテンツは軽い」という印象が芽生えています。

結び


尻切れですが、オチも結論もありません。

なぜそうなるのか考えがまとまりませんし、そもそもコンテンツが軽いことに良し悪しがあるのかとかも判らなくなってくるためです。

現状では、まだ受け手側に「消費」という認識はないのかもしれないとも思います。

しかし「コンテンツ」として提供する側の大半は、「コンテンツは消費されるもの」という認識となり、その認識に従って扱ってはいないでしょうか。
送り手側がそう考えそう行動しているなら、受け手側も自然と消費するという認識になるのかもしれません。

送り手も受け手も双方が「コンテンツは消費するもの」という認識で進むなら、コンテンツはもっと軽くなるのかもしれません。

と考えた所で何をどうすればよいのか、もっといえば、いったいどのような状態を目指せば良いのかすらわからずに悩む次第です。

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